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わが街・天満には、歴史を感じさせるスポットが多くあります。
天満というよりは、桜ノ宮に近いエリア・桜の宮橋(銀橋)付近に、大塩平八郎の乱にゆかりがあるスポットがあります。
大塩平八郎の乱とは?
大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)は、江戸時代の天保8年(1837年)に、大阪(現・大阪市)で大阪町奉行所の元与力大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱である。大塩の乱とも言う。旗本が出兵した戦としては寛永年間に起きた島原の乱(1637年 – 1638年)以来、200年ぶりの合戦であった。
小中学生時代には社会科で、高校時代は日本史で習いましたねー。
詳しく覚えてなくても、大塩平八郎って名前と、江戸時代末期に起きた騒動ってことは、おぼろげに覚えてるのではないでしょうか。
大塩平八郎は、天満生まれの役人で、「大坂町奉行組与力」って肩書でした。大阪市北区には今でも「与力町」って地名が残っています。
大塩平八郎の乱 槐跡
国道1号線の東天満交差点と銀橋(桜の宮橋)との間に、「大塩平八郎の乱 槐(えんじゅ)跡」と彫られた石碑があります。
このあたりの歩道は幅が広いので、歩道の植え込みにひっそり立っている石碑は、見落としてしまうかもしれません。
天神祭の時や、造幣局桜の通り抜けの時に、通っているのに、気づいていない人も多いのではないでしょうか?
桜の通り抜けの出口となる造幣局北門や、大阪シティバス「桜の宮橋」バス停のすぐそばに、大塩平八郎の乱槐跡の石碑があります。
ここに天保八年(1837年)二月大塩平八郎の乱の砲弾で裂けた樹令二百年の槐があったが枯死した。よって新たに若木を歴史の証人の生命を伝える
昭和五十九年三月三十日
建設省大阪国道工事事務所
大塩平八郎の乱では、天満など大阪の街が火の海になったと聞いています。
槐の樹に砲弾跡が残るほど、激しい戦いだったんですね。
槐跡石碑がある周辺は、天神祭や造幣局の通り抜けの時以外は、静かな場所なので、なかなか大塩平八郎の乱の混乱が想像できません。
槐(えんじゅ)とは?
中国原産の、まめ科の落葉高木。高さ約一〇メートル。夏、黄白色の蝶(ちょう)形の花がふさ状に咲く。秋、さやにはいった実を結ぶ。材は建築・器具用に、花・実は煎(せん)じて薬用にする。
Google「槐」検索結果より引用
槐は秋に花を咲かせるようです。
これが槐の花か!としっかり認識したことがないので、今度、花が咲いたころに、しっかりと花を見てみたいと思います。
木は建築材料として、花と実は薬用として、活用されるとは知りませんでした。
スポット情報:大塩平八郎の乱槐跡
住所:大阪市北区天満1丁目
大塩平八郎に関連するスポットの記事
天満界隈を中心に大阪市内には、大塩平八郎に関連するスポットがたくさんあります。
大阪・末広町「成正寺」大塩平八郎・格之助墓所
天満「洗心洞跡」大塩平八郎が運営していた私塾跡は造幣局敷地内でした
大阪市北区「与力町」江戸幕府の役職の名前が地名に残ってます
天満「与力役宅門」建物の一部が造幣局宿舎内に残っています
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